中央聖書教会礼拝説教

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日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団
中央聖書教会
牧師 本田勝宏
〒170-0003 東京都豊島区駒込3-15-20
 3.1/5 (21 評価)
日曜日, 22. 4月 2012, 03:29:01

2012・4・22 説教

 3.3/5 (6 評価)

小さい者こそ大きい
ルカによる福音書 9章46節~50節

キリストとの対話をする
今、祈祷会では創世記からヤコブの生涯を読んでいます。ヤコブは祭壇を築いた、ということが何度か記されています。このことから神の御顔を求めるということの大切さを知りました。
神の御顔を求めるとは、神との対話をする、ということです。礼拝は、その時です。私たちは礼拝において、神との対話をします。そしてそれは、キリストとの対話でもあります。
キリストを見つめるとは、キリストとの対話をする、ということです。ルカ福音書を読み、私たちは今、キリストの姿を見ています。そして一人ひとりがキリストとの対話をしています。
私たちの信仰生活の歩みは、このキリストとの対話に始まります。そして、キリストとの対話によって進められていきます。今日、私たちは、与えられた個所からそれぞれがキリストとの対話、神との対話をしていきます。
福音書が記された目的の一つは、主イエスと弟子たちとの対話を通して、私たちも主イエスと対話をすることです。
弟子たちと私たち
主イエスと弟子たちとの対話は実に興味深いものがあります。それは弟子たちが実にトンチンカンな受け答えをしている、ということです。わからず屋であったとも言えます。理解できないでいたのです。
しかし、そのような弟子たちに対して主イエスは、忍耐して教え続けておられます。訓練しておられるのです。このような弟子たちを見て、私は違う、とは言い切れません。
今日の個所では、弟子たちは、誰が一番偉いか、大きいかという議論をしていた、と記されています。ここに彼らの無理解の姿があります。そしてこれは、私たちの中にも起こる主イエスに対する無理解です。
主イエスを正しく知るために、その御姿を今見ています。主イエスの歩みを正しく知ることなしに、私たちクリスチャンがどう歩むべきかを知ることはできません。主イエスを知らないと、私たちは間違った歩みをします。そして、誰が一番偉いか、などという議論をしてしまうのです。
この議論、考えは私たちと無関係でしょうか。そうではありません。これは主イエスが、おしかりになった議論、考えなのです。これは、主イエスの御心ではないのです。
キリストに従う者
私たちの生きている世界は、比較の世界です。競走社会、などと言われることがあります。ある国は学歴が物を言うそうです。このような価値観の中で生きていると、他の人と比較して生きるということからなかなか自由になれません。
この価値観がそのまま、私たちの信仰の姿勢になることがあります。私たちの信仰の姿勢に影響を及ぼすことがあります。
成功主義という考えが信仰生活、信仰の考えの中に入ってくることがあります。注意したいと思います。主イエスはこの考えを戒めておられることを覚えましょう。
このような考えをするのは、主イエスの言われたことを理解できないからです。主イエスは「人の子は人々の手に渡される」と言われました。御自分の死を語っておられるのです。弟子たちはこのことを理解できなかった。そしてこのような議論をしたのです。
主イエスは、人々の手に渡され、殺された。このためにこそこの世に来られたのです。ピリピ2:1~8で、主イエスが御自分の偉大さ、大きさを捨てて低くなられたことが記されています。そしてパウロは、何事も虚栄心からするのではなく、へりくだり、互いに人を自分より優れた者と思いなさい、と勧めます。
なぜなら、それはキリストにも見られることであるから、と言うのです。私たちは、このキリストを知って、このキリストに従う者です。キリストを見つめるのは、キリストに従うためです。キリストは御自分を低くされた、小さくされたのです。
幼子のようになって
主イエスは、子供を御自分の傍らに引き寄せて御心を教えられます。子供は、この時代では、価値のない者、何もできない、値打ちを認めてもらえない者を意味していました。決して無邪気な、純粋で無垢な者、と言う意味ではありません。
私の名のゆえにこのような子供を受け入れる者は、私を受け入れる者であり、私を遣わされたお方、神を受け入れるのだ、と言われます。
私の名のゆえに、とは、私の弟子であることのゆえに、ということです。私たちが主の弟子であると言えるのは、小さく弱く、価値はないと思われている者を受け入れることによるのです。これは、誰が一番偉いか、大きいか、という考えからは出てこないことです。
小さく弱い者を受け入れるとは、自分自身が小さい者であることを覚えなければできないことです。ルカには記されていませんが、誰でも幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない、と主イエスは言われました。幼子のようになるとは、自分は小さく弱い者である、ということを認めることです。
私たちは小さく弱い者であるからこそ、救われたのです。主イエスは、罪を持ち、罪の苦しみ、弱さに泣き、悲しみの中にいた私たちの所に来て下さり、救って下さったのです。そのために、低くなられ、小さくなられたのです。
パウロは、弱さを誇る、と言いました。それは弱さを喜ぶということです。なぜなら、弱さにこそ、神の力が現わされるからです。私たちも自分が弱い者であること、小さい者であることを知る時、弱さにある者を受け入れることができます。そして、それは主イエスを受け入れ、神を受け入れることなのです。このことによって、私たちが主イエスの弟子であることが明らかになるです。そして、このように小さい者こそ、本当に大きいのです。




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